ミニコラム:「塗油の式」について

聖職候補生 ダビデ 梁權模

ある日のことですが、とある信徒の方より、次の質問を受けたことがありました。

「聖公会には、塗油の秘跡のようなものがありますでしょうか?」

「塗油の秘跡」と言いますと、私たちキリスト者にとって、特にカトリック教会と縁が深い方にとっては、「重い病気を患っておられる方が、最後に受けるあれでしょ?祝福された油を額と両手に塗ってもらうという。」と覚えておられる方もいらっしゃるかと思います。

また、私たちの教会においては、1959年祈祷書の「病者訪問式」の中で、「抹油」として記されている箇所を覚えている方もいらっしゃるかもしれません。

現行祈祷書においては、この「抹油」の式は323ページ以下の「病人訪問の式」において、「塗油」というタイトルとして記載されています。

この塗油の式について、私たちが受ける印象は「死に臨む病人が受ける」ということです。つまり、「臨終を前提としている」礼式として私たちは受け取っているのです。

というのも、古代教会から中世教会にわたり、塗油の式は「神様による癒しの恵みが与えられることをこいねがう」という意味より、「この人を、これから神様のみ手に委ねます」という意味を持つように変化してきた、という背景があるからであろうと、思っています。

欧米圏の映画などで、お医者さんが「神父様をお呼びしてください」と家族の方々に伝えるシーンがあることを、見たことがある方もいらっしゃるかと思います。

おそらくは、この言葉に含まれていることが、「患者さんに、塗油の秘跡を受けさせてください」という意味合いがあるのでしょう。それほど、「塗油の式」は「最期を準備する儀式」のイメージがかなり強いです。

しかし、塗油の式が「最期を準備する儀式」として認識されてしまうということは、この式の意味をものすごく縮小してしまうのではないか、と思います。

塗油の式については、ヤコブの手紙5章14節の言葉がその根拠となっていることを確認できます。ヤコブは、手紙の中で「病気の人は教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(ヤコ5:14)と勧めています。

松本先生は、2009年11月号の『ともしび』に投稿されたメッセージにおいて、塗油のことを「『癒しのみわざ』をなさっていらっしゃるイエス様のお働きのお手伝いをさせて頂いているような感謝とよろこび」を覚えるときである、と書かれておりました。

その言葉通り、塗油の式は単に「死にゆく人を見送る準備をする式」ではなく、病気を患っている人に「癒しのみ業をなさる」イエス様が、現にこの場におられることを思いながら祈る礼式であるように思っています。

また同時に、塗油の式はその場にいる私たちも、イエス様が癒し慰めててくださることを願い、祈るときでもあると思います。というのは、イエス様の癒しのお働きは病気を患っている人に限らず、深い悲しみと絶望を味わっている、その人を看取っている周りの人々にも与えられる恵みであると思うからです。

私たちのすぐそばに、イエス様はいつも共にいてくださり、悩みや苦しみを担ってくださる方であることを思いながら、塗油の式が持つ意味を黙想してみたいと思います。

「少女を起き上がらせるイエス様」

※2023年8月6日の週報のミニコラムより