ミニコラム:「イコン」の勧め

聖職候補生 ダビデ 梁權模

今回より、私が個人的に思っていたキリスト教の様々な事柄について述べる「ミニコラム」を開始しようと思っております。このコラムは不定期で、聖書箇所に対する黙想ではありませんが、皆さんの信仰における良い参考と助けとなる箇所になればいいな、と思っております。

その第一回のテーマは、「イコン」です。イコンは、私たちが属している西方教会の伝統より、ロシアやギリシャといった、正教会の伝統において発展されてきたキリスト教美術です。

正教会の礼拝堂に一度行かれた方はご存じかもしませんが、礼拝堂に入ると、いたるところにイコンが掛けられています。そして、礼拝堂のイコンに向かって、信徒の方々がご自由にイコンに接吻し、イコンを眺めながらお祈りを献げられます。

私たちからすれば、多少不思議な光景ではありますが、正教会を含む東方教会においては、このようにイコンを用いて祈り、黙想することが重要な信仰の営みの一つであり、また自分の霊性を養う術として重宝されてきました。

そこで、本題に入りたいと思いますが、「なぜ、イコンのことを勧めようとするのか」について述べたいと思います。

それは、イコンがもつ意義について知らなければならないと思っております。イコンは、他のキリスト教宗教画と同じく、宗教的な絵画ですが、日常において祈りと黙想の助けとなる「霊性を養う道具」として今も用いられています。

というのは、一般的な宗教画と違って、イコンは、その型が「決まっている」絵画です。伝統的なイコンを見ると、その構図やシンボル等が、10世紀のものと15世紀、20世紀において造られたものとの差異がほとんどないくらいです。

なぜなら、イコンの中で描写されているそれぞれのシンボルは、それを眺める信徒にとって、そのシンボルだけで黙想をする題材を与えるからです。

イコンの中に描写されている人物が手に取っている事物やその仕草、表情等を通して、イコンを眺める信徒は描かれている人物を見るだけではなく、その人物や事物がどのようなものであるかを読み取り、それを用いて祈ることができるのです。

そのことを考えると、イコンは私たちの信仰の成長において大きな助けとなると思われます。

もし、近頃にイコンを見る機会があるのであれば、祈りの気持ちを込めて眺めてみるのは、いかがでしょうか。

イコン『ウラジーミルの生神女』

(Virgin of Vladimir)

1131年作、作者未詳

※2023年6月18日の週報のミニコラムより