ミニコラム:「堅信」って何?

聖職候補生 ダビデ 梁權模

先週、カルメル会が運営している宇治の「黙想の家」にて、聖職養成委員会主催で黙想が行われました。

黙想の内容としては、聖職の道を目指そうとしている人々に対して、「教会とは何か」について、聖書の中からその意味を見出すという黙想が行われ、それを分かち合う有意義な時間でした。

夕方の懇親会において、偶然と堅信をイメージとするならば、何であろうか、という話し合いがありました。

そこで、強いていうならば、「聖霊によって強められるということだから、炎のような舌が各々の上に臨むことではないだろうか」という意見がありました。

その言葉を聞いて、なるほど、と納得した私でしたが、同時に私自身は堅信についてどのように思っていたのかがはっきりしていなかった、という恥ずかしさもありました。

キリスト教の諸教派において、「堅信」の礼式を行う教派はカトリックと正教会、そして聖公会があると言われています。ルーテル教会や長老教会などにおいては、行っている教団もあれば、それを行っていない教団もある、とも言われています。

私自身は、本来はバプテスト教会出身でしたので、堅信の「け」の字も知らないままでした。私が知っていたのは、バプテストならではの「浸水礼」(体を浸す洗礼)と、復活日やクリスマスの礼拝において行われた「主の晩餐」(聖餐式)だけでしたので、「浸水礼を受けてから、また別の儀式を施す必要があるのか?」という疑問が、私にはありました。

そのような背景を持っていた私でしたので、初めて聖公会の教会に来た時には、「堅信を受けましょうね」と言われたとき、それについて戸惑いを覚えた記憶があります。

「既に洗礼を受けて信徒となったのに、それだけでは足りないというのか」という思いと、また堅信を受けた人にのみ陪餐ができる、というように書かれていた、礼拝の出席名簿からの戸惑い感でした。

結果的には、堅信も受け、神学校まで卒業して、聖職の道を歩み始めるようにまで至っている私ですが、その時は「堅信」のことを、単なる「形式的な儀式に過ぎない」と思っていました。

しかし、神学を学び始めて、教会の様々な典礼を勉強する中で、堅信が持つ意味とは何かを知るようになったときは、「なるほど。堅信とは、単なる『儀式』ではなくて、このような重要な意味を込めているのか」と納得できるようになりました。

「堅信」の単語の意味としては、「信仰を堅くする」という意を持ちます。この言葉を接したとき、「洗礼は、私が神さまに対する堅い信仰を持っていることを示されたことになったのではないでしょうか?それを堅くするとは、どういうことでしょう?」と疑問を持つ方もいらっしゃるかもしれません。

この堅信の聖書的な根拠は、使徒言行録の第8章14-17節において、使徒たちが聖霊が降るように祈ると記述されている箇所です。

この箇所において、使徒たちはすでに洗礼を受けた人々が、まだ彼らの上に聖霊が降っていなかったことを知った、と記録されています。そのため、彼らのために聖霊が降るようにと、手を置いて祈ったので、聖霊が洗礼を受けた彼らの上に降った、と記述されています。

このことを踏まえたうえで、堅信が持つ意味をもう一度考えると、堅信は洗礼を完璧にさせるための式である、ということであるように思われます。

というのは、キリスト者として歩み始めることを宣言する、一人の人間に対して、その道をまっすぐ歩み続けることができるように、聖霊の恵みという贈り物が授けられる、祝福の礼式であるからです。

適切ではないかもしれませんが、ある人が遠い目的地まで旅をすることになったとしましょう。その時、周りの友人たちはその人のために宴を開き、祝福しながら見送ります。

その人が出発しようとするとき、一番仲良しの友人が「ちょっと待ってくれ!」とその人を止めさせ、「長い旅になるだろう。ささやかなものだが、ぜひ受け取ってくれ」と、旅路の助けとなる様々なものを渡します。

ある意味では、友人が旅人に渡した様々な贈り物が、堅信に相当するものであるように思います。私たちの祈祷書の、「洗礼堅信式」における主教の祈りの言葉では、「聖霊を満たし、知恵と理解、深慮と勇気、神を知る恵みと、神を愛し敬う心を与えて下さい」という言葉が用いられています。

これらのことが、私たちの信仰の旅路をする中で、聖霊を通して与えられる恵みの贈り物であることは、確かでしょう。つまり、聖霊によって私たちの信仰が強くなり、私たちの人生における信仰の旅路を全うすることができるように、強く支えてくださる、ということです。

聖光教会で、堅信を受けてからもう、5年目に入ります。時折、信仰が揺らいでいる時には、最初に堅信を受けたときの祈りと、その思いを思い出しながら、信仰の道を歩み続けたいと思います。

堅信式を描いた絵画、作者・時代未詳。

※2023年8月20日の週報のミニコラムより