ミニコラム:四つの福音書と四つの生き物

聖職候補生 ダビデ 梁權模

先週木曜日、教区の仕事で名古屋に行ってきました。会議が終わって、電車の時間まで随分と余りがあったので、中部教区の主教座聖堂である名古屋聖マタイ教会に行ってみよう、と思いました。

礼拝堂のあちこちを見ていた時、ふと目が止まったのが、ある四つのステンドグラスでした。それぞれ、天使、獅子、牡牛、鷲が描かれていたステンドグラスでした。

この礼拝堂の美しさを増していたステンドグラスをを眺めていた時、あることに気づきました。それは、それぞれのステンドグラスに描かれているのは、いわゆる四人の福音記者たちの象徴である、ということでした。

これらの生き物は、それぞれが各福音記者に対応しています。マタイは人間(または天使)、獅子はマルコ、牡牛はルカ、そして鷲はヨハネに対応されています。

この四つの生き物のモチーフは、新約聖書のヨハネの黙示録に登場する四つの生き物と言われています(黙4:6-7)。それぞれの生き物は、獅子、牡牛、人間、鷲のような姿をしていたと記されていますが、これらの伝承はまた、旧約聖書のエゼキエル書において登場する、神の玉座を運ぶ「四つの生き物」(エゼ1:4-14)を思い出させます。

これらの四つの生き物について、エゼキエルは、「四つの顔があって、四つの翼を持っていて、その四つの顔とは、人間と獅子、牛、鷲であった」と、彼は言っています。

この福音記者たちの象徴である、それぞれの生き物が持っているシンボルについては、様々な意見があります。その中でも代表的なのは、ヒエロニムス(教会暦では司祭教会博士ジェローム)による解釈です。ヒエロニムスは、マタイの象徴が人間であるのは、「キリストが人の姿をもってこの世に来られた」ことに焦点を当てていることである、と語っています。

マルコの象徴が獅子であることは、「王としてのキリスト」を福音として伝えているからであると語っています。また、何故獅子の象徴であるのかについては、キリストが「死の力に打ち勝ち、復活させられた」ことをも意味しているのである、と彼は解釈します。

ルカにおいては、自己犠牲と奉仕を意味する牡牛として描かれていますが、これは、キリストが自らを差し出して人々に対する愛を現されたように、キリスト者たちもイエスにならってその奉仕をすることを学ぶように教えているからである、という解釈をしています。

最後のヨハネにおいては、鷲が太陽に近い、高い空を飛んでいるように、キリストも父なる神様に限りなく近い方であることと、また高い所を目指している鷲のように、キリスト者もそれを見習おうではないか、という意図を持っていると解釈しています。

あくまで、「このような解釈がありますよ」程度のお話ですが、福音書ごとにそれぞれの特徴があることは、実に興味深いです。特に、福音書によっては、ものすごく人間味のあふれるイエス様と、まるで生ける神ご自身がその場におられるようなイエス様が描かれているのは、福音記者がどのようなメッセージを伝えようとしているのかが理解できるのではないでしょうか。

それぞれの異なる特性と観点を持っている四つの福音書ですが、逆に言えば、このような異なる観点を持っているからこそ、様々な角度からイエス様を理解することができる、ということであると思います。そして、私たちはこの福音記者たちが証している、「神の子なるキリスト・イエス」がこの世に来られ、私たちを救うために「苦難を受けて復活させられた」ということを、毎週の礼拝において告白しています。

これらのことを思いながら、毎週朗読する福音書が伝えようとするメッセージを吟味したいと思います。

福音記者の四つの象徴を描いた挿し絵、『ケルズの書』より。9世紀頃制作。ダブリン・トリニティ・カレッジ所蔵。

※2023年7月16日の週報のミニコラムより