聖書には、私たちの日常では考えもつきそうにないような奇妙なお話が登場します。ルカによる福音書九章二八節以下には、弟子たちと山に登り、お祈りするイエスさまが描かれています。
イエスさまがお祈りしているうちにイエスさまの顔が変わり、服が真っ白に輝き始めたとあります。そしてかつて神さまに選ばれたイスラエルの指導者、奴隷の民をエジプトから解放したモーセと、紀元前九世紀に北王国イスラエルで活躍した預言者エリヤとイエスさまが語り合うという奇妙な様子が描かれています。モーセもエリヤもユダヤ人にとっては、重要な人物です。苦難の中にある者らを救い出す解放者の代表格です。
この二人とイエスさまは、栄光に輝く中でエルサレムで起こる最期について語っておられました。「最期」とは十字架上での「死」のことなのでしょう。 私たちは「死」というとき、どのようなイメージをもっているでしょうか。迫ってくるもの、運命、恐怖、終末、定められたものなどなどさまざまなことを思い描くでしょう。「死」のイメージは、私たち一人ひとりさまざまなイメージを抱きますし、年齢、時代状況によってもそのイメージは大きく異なるでしょう。 しかし、この聖書で描かれている栄光に包まれたイエスさまの姿とその最期との関係は、つまり栄光と十字架上での死とは、イコールの関係で描かれているように思います。つまり、イエスさまは、その十字架の真ん中で栄光を表される。その栄光がすでに弟子たちの前に現れる場面が九章二八節以下なのです。弟子たちは、そんな重要な場面で眠りこけていたのですが、、、
イエスさまは、この栄光に包まれながらも、これから受ける苦難、最期へと向かって出発されます。イエスさまが受けられる苦難は、人々に対する愛の印であると私は理解しています。この苦難のさまを私たちが仰ぎ、また黙想することで私たちはイエスさまの愛を少しずつ悟ります。
この神さまからの愛を実感するからこそ、私たちは大いなる主を畏れ、礼拝していくのだろうと思います。この大斎節という期間を通して、私たちはイエスさまが赴かれる最期に心を向けて、またその苦難の道のりに思いを寄せて、大斎節を過ごすことができればと思います。この大斎節を過ごす中で、私たちがイエスさまから愛される者であることをきっちりと自覚して、復活の祭りを喜びをもって迎えたいとお祈りしています。
執事 アンデレ 松山健作