「罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」 (マタイによる福音書三章六節)

 私たちは、生きている内にたくさんの人と出会います。出会いの中で、私たちは直感的に、あるいは間接的のその人との距離をとります。ある人とは、とても距離が近く。ある人とは、どうしても距離を置いてしまいます。

 しかしその距離とは、時と場合によって変化します。何かをきっかけに私たち人間通しの距離には、変化が生じます。相手に何か親近感を覚える事象があれば、変わるのです。たとえば共通の趣味があったりすれば、その距離は縮まります。いやしかし、その趣味ゆえにこだわりが強く、対立して距離が遠のいてしまうということもあるでしょう。

 また一方で私たちは、人生の中でとっておきのパートナーを見つけるかもしれません。本当に思いを一つにできるパートナーとの出会いです。何をしても息が合う。何をしても相乗効果を生み、思いが一致するという状況です。それは、もしかすると奇跡的な出会いなのかもしれません。

 けれどもその出会いは、永遠ではありません。何かをきっかけに一致していた関係は、壊れ、崩れます。距離の近かったはずの二人は、遠のきます。二人の間には、喜びと幸福を共有した時もあれば、一方で疑いをかけ憎しみ合ってしまうかもしれません。

 他者との関係性は、常に状況の変化によって左右されます。ズレが生じ、歪みを覚え、時に傷つきます。それを修復することは困難であるとさえ感じるかもしれません。私たちは生きる中でさまざまな関係性を経験します。

 それは神さまと人間の関係にも通ずるのではないでしょうか。神さまは、この世を愛し、幼子イエス・キリストを送られます。それは神さまと人間におけるズレと歪みの回復という救いの業です。

 私たちは、この神さまから差し伸べられる愛のみ手に気づいた時、自己本位な生き方を悔い改める必要があります。神さまに心を向け、すべてを委ねる生き方へと刷新される必要があります。

 罪の告白とは、そのような神さまと人間とのズレを悟り、打ち明けること。私たちは神さまへ罪を告白し、和解することができます。それは幼子イエスさまのご降誕がこの世に起こった救いの歴史であるゆえです。

 神さまの愛を感じ、神さまとの距離を縮め、またズレを解消することのできる祭りがクリスマスです。その恵みに感謝して、生きることができますように。クリスマス、おめでとうございます!

執事 アンデレ 松山健作