ヨハネによる福音書2章13節以下には、イエスさまがエルサレムの神殿でいけにえの動物や商人を追い出した様子が描かれています。この描写は、イエスさまが生涯かけて成し遂げられる贖いの業と深く関係していると思われます。
過越祭とは、エジプトにおける奴隷生活からの解放を記念する祭りです。と同時に将来メシアがもたらす救いを待望する祭りでもありました。エルサレムには、そのお祭りで集まった人々が大勢いたと思われます。
イエスさまは、そんなエルサレムの神殿に入り、いけにえとして売られていた牛や羊、商人を追い出します。このイエスさまの行動は、「その日には、万軍の主の神殿にはもはや商人はいなくなる」(ゼカ14:21)という預言と関係しているように思われます。イエスさま発言も「その日」について暗示しているのかもしれません。
イエスさまは、神殿からいっさいのものを追い出します。この状態は、いけにえの不在を示しています。しかし、これは不在なのではなく、イエスさまという存在が、すべてのいけにえに代わり、十字架上で屠られることを暗示しています。
一連のイエスさまの行動に腹を立てたユダヤ人は「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(2:18)と尋ねます。イエスさまは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 (2:19)と応え、「しるし」は、イエスさまが受けられる苦難と復活であることを預言します。しかし、この応答を聞いた者らは、イエスさまが、何のことを言っているのか理解できなかったようです。
イエスさまの十字架と復活は、しばしば現代の私たちにも理解できないことがあります。それは当時の人々も同じで、ユダヤ人をはじめ、イエスさまの後に従っていた弟子たちも、その意味について明確に理解できた者は、少なかったようです。
実際に十字架と復活が起こった後に、イエスさまが語っていたことを思い出すといった具合でした。
当時、神の宮と信じられていた神殿は、人間の欲望の住まいと変わり果てていました。そこでは、真に神に礼拝するために人が集うというよりは、利益を求める商売の宮となっていたようです。
しかし、イエスさまは、その神殿を立て直すために自らの体をいけにえとして、建て直しを図ります。その形は、人間が知っている既存の神殿の形ではなく、キリストの十字架と復活によって建てられる救いの神殿です。
大斎節第3主日の時、私たちは神さまが人を救おうとする揺らぐことのない意思をお示しになっていることを聖書から読み取りたいと思います。またその思いにイエスさまがご自身が従順に従われ、いけにえとして代わり、十字架への道のりを歩まれるイエスさまの決心に心を寄せたいと思います。