大斎節第1主日は、マルコ福音書1章9節以下が読まれました。前半部分は、「主イエス洗礼の日」にも読まれたイエスさまの洗礼の記事、後半は「荒れ野における誘惑」となっています。
前半の9節から11節は、ガリラヤのナザレからやってきたイエスさまがヨハネから洗礼を受ける場面です。ヨハネは、多くの人々を神さまへと立ち帰らせるべく悔い改めの洗礼を施しました。イエスさまの洗礼は、その洗礼を受ける民の列に加わり、苦しみを受けられる決心としての洗礼を意味します。
10節には水の中からイエスさまが「上がる」描写と同時に、神さまが天を裂き介入される様子が記されています。イエスさまが水から「上がる」のに対し、天からは霊が「下る」という対照的な状況が描かれています。この際にイエスさまは、ご自身の天から下る使命をご覧になります。とともに神さまの介入は、その使命を果たす力も付与されます。
11節では、沈黙していた神さまが「声」を発します。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声です。これはイエスさまに与えられた使命を神さまが全うするように励まし、勇気づけるための声です。天上におられる神さまが、ヨハネの時代が終焉したことを告げ、イエスさまの時が訪れたことを告げる言葉でした。
イエスさまは、神さまに従って地上に降り、洗礼によって民の罪を背負う歩みへと踏み出した瞬間が、この出来事です。神さまはこの世で働くイエスさまに限りない愛と励ましを送っていることを聖書から読み取りたいと思います。
そしてこのイエスさまの洗礼という出来事は、私たちの罪が贖われることに関係しているということに思いを寄せることができればと思います。これから世の苦しみを受けられ試みに会われる決心が、「洗礼」という出来事であるゆえです。
次に後半の12節から13節です。12節は、イエスさまが「霊」によって「荒れ野」という場に送り出されたことを聖書は記しています。この「送り出す」(エクバッロー)は、イエスさまが悪霊を追い出す時に用いられる言葉です。それゆえ、この言葉は「力づくで追い出す」という強い意味を含んでいます。イエスさまは神さまが送られた霊によって、追い立てられるように荒れ野へと送り出されたことがわかります。
その送り出された場である「荒れ野」は、イエスさまを守ろうとする「天使」、そしてイエスさまを誘惑し、滅ぼそうとする「サタン」が凌ぎを削る場です。そのような「荒れ野」でイエスさまは、サタンから試みを受けます。サタンの誘惑とは、人間の弱さに漬け込み、罪へと誘いかける力です。私たちも生きているさまざまな場面で誘惑を受け、罪へと陥ります。神さまは、その試みにあっている人間をご覧になられる方です。それは、神さまという方が試みにあっている人間が、そのう最中において、神に心を向けることができるか、信仰を告白することができるかということをご覧になっておられるのです。
私たち人間は、数々の誘惑や試みの最中において、時に心を奪われることがあるかもしれません。けれども、再び神さまの元に立ち返り、信仰告白をし、自らの使命に立ち戻る必要があります。イエスさまご自身もさまざまな誘惑に打ち勝ち、ご自身が果たすべき神の国の実現を示す使命を悟られます。
ルカやマタイ福音書は、このサタンを描く場面において、「悪魔が離れ去った」(マタ3:11)と勝利を強調します。それに比べると、マルコ福音書はイエスさまがサタンに打ち勝った描写を明確には記していません。もちろん、勝利は暗示しているものの、勝利という事柄よりもむしろ、受けられている「誘惑」そのものに重点があるように感じられます。
私たちは、神さまからいのちをいただく中で、さまざまな試みに遭遇します。その一つひとつの過程の中で、私たち自身が神さまに向き合うことができているか、苦しさの中で心を向けられているか、このようなコロナ禍というかつては予測不可能であった世の中の混迷した状況の中で、私たちの心はどこに向いているのか、ということなのかもしれません。人生でさまざなま試みに合う中で、私たちは使命を忘れずに神さまへの信仰を告白することができているでしょうか。
イエスさまが荒れ野でサタンからの誘惑を受けられていた際、援助者がいることに私たちは気付かされます。これは聖書においては「天使」という存在です。13節「仕えていた」という動詞は過去の状態の継続を表す形(未完了過去)で描かれています。その性質から考えると、この天使という存在は、四十日の間続くサタンとの闘いで、絶え間なく仕えていたということになります。
イエスさまが苦しい時、そこには絶え間なく天使という存在が神さまから仕わされており、援助しています。この存在の役割に私たちが気づく時、それと同時に神さまがこの地上という「荒れ野」に天使という聖霊を送り、この世に仕えてくださっているということではないかと思います。
それは、この世に介入される神さまの愛と励ましです。イエスさまが洗礼を受けられた時に十字架への使命とともに受けた愛と励ましが、私たちにも同様に今もなお注がれているという恵みに気づかされたいと思います。
私たちも生きる中で、さまざまな苦悩に直面します。今、現在を生きることに苦しんでいるかもしれません。その試みの中で、苦しさに敗北しないように神さまの声を聞き、神さまに信仰告白する機会が与えられます。私たちは、苦しみという試みをチャンスにして、苦しい時こそ、自らの信仰を告白できるキリスト者として導かれますようにお祈りしたいと思います。