ヨハネによる福音書12章20節以下が読まれました。ここではギリシア人という異邦人が救いを求めて訪れることをきっかけに、イエスさまが自らの「死」について語る場面となっています。また十字架の意味を語ることで、イエスさまに仕えて従うことへの勧めとなっています。本日は、この箇所から「イエスさまの言葉」となっている23節から28節前半に注目してみたいと思います。
ギリシア人の到来によって、イエスさまの「時」(23, 27)が示されます。この「時」とは、「人の子が栄光を受ける時が来た」(23)という時です。「栄光」というと、一般的には、輝かしさを現すかと思います。何らかの成功や勝利と結びつくような言葉です。しかし、ヨハネ福音書におけるイエスさまが語られる「栄光」とは、十字架の死の中に示される輝きを「栄光」としていることが、本日の箇所からわかります。また一方で、キリスト者である私たちは、教会界隈で「栄光」というと、主のご復活の中に示されるイエスさまと神さまの栄光と認識しているかもしれません。
けれども、ヨハネ福音書は、十字架においてすでに示されている栄光を主張します。24節以下は、それを説明するたとえになっています。イエスさまの死が「一粒の麦」にたとえられます。麦が落ちて死ねば、「多くの実を結ぶ」(24)ことが記されており、イエスさまの死は、多くの人に新たな命をもたらす可能性があることが記されています。これに続き25節以下では、イエスさまの死を踏まえ、弟子たちへの勧めが語られます。
イエスさまに従う弟子の前には、①自分の命を愛する道、②自分の命を憎む道の2つが示されます。①自分の命(プシューケー)を愛する道とは、この世の命に固執し、それを自分のために使おうとする生き方を示しています。それに対して、②自分の命を憎む道とは、命を粗末に扱うことではありません。自傷的な事柄でもありません。自分の命を憎む道とは、この世で与えられた時間を「永遠の命」のためにささげる生き方を指しています。この生き方は、26節にあるように、イエスさまの十字架に倣い、自らをささげイエスさまに仕える者は、父である神さまにおいて大切にされ、尊ばれる者とされる生き方となることが示されます。
27節で、イエスさまの心は乱れていることがわかります。「わたしは心騒ぐ」(27)の「心騒ぐ」という動詞は、「かき乱す、動揺させる、平静を失わせる」という精神的な混乱を意味します。普通であれば、心乱れ、騒ぐ時、普通の人間は、「神さま、私を救ってください」と懇願するのではないかと思います。私たちも苦しい時、病気の時、辛い時、自らの心が乱れている時、神さまに向かって、「助けてください、癒してください、治してください」と祈るかと思います。
けれども、イエスさまは心みだれ、平静を失っている状態において、「わたしはまさにこの時のために来たのだ」(27)と告白するのです。この告白は、自らが苦難の使命を自覚されているゆえであり、自らが十字架にのぼることで、父は栄光を現してくださるという確信ゆえの躍動感ある力強い告白なのだろうと思います。
私たちは、この大斎節の時、どれほどにイエス・キリストの十字架(苦しみ)に目を向けて生きているでしょうか。自分の生き方に固執するのではなく、自らをささげ、キリストに仕え、永遠の命を求める生き方をどれほどに求めることができているでしょうか。
28節前半で神さまは応答します。イエスさまの告白を受け、天から雷や天使が舞い降りてきたと思うほどの衝撃的な応答が下されます。「わたしはすでに栄光を現した。再び栄光を現そう。」(28)この言葉は、十字架に向かわれるイエスさまの生涯すべてが、すでに栄光であったということ、そしてこれから始まる「十字架の時」に再び人々に示される未来に向けた救いに関する天からの応答となっています。
「十字架」とは、キリストの死を現します。私たちは「死」という時、さまざまな事柄の終焉として捉えるのが一般的だろうと思います。生命体の「死」は、この世での命が、その「生」を全うしたことを示す点として、私たちは認識しています。
しかしながら、本日のイエスさまがおっしゃる十字架における栄光、イエスさまの「死」における栄光とは、私たちの一般的な認識とは、全く異なる状況を提示しています。
つまり、神の栄光は、十字架に現れている。十字架上でのイエスさまの「死」とは終わりではなく、新しい命の始まりであるということです。イエス・キリストの死を通して、異邦人を含むすべての人が永遠の命に招かれています。私たちが、この十字架から始まる永遠の命に与るとは、神の栄光を見るということであり、それに応えるか否かが問われています。私たちは、み言葉を通して、イエス・キリストの十字架の死における栄光を見る中で永遠の命に従い、またその新たな命の始まりに導かれて生きる者とされたいと思います。父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。