復活節前主日 メッセージ

 私たちは復活節前主日を迎えています。イエスさまがピラトに引き渡され、ピラトがユダヤの習慣に基づいてイエスさまを解放しようとしたにもかかわらず、祭司長や群衆の勢いに負け、イエスさまを十字架につけるために引き渡します。(15:1-15)イエスさまは、兵士のあざけりをうけ、ゴルゴタの丘にひかれていき、十字架刑に処されます。通りかかった人も、強盗もイエスさまを侮辱するといった具合でした。(15:16-32)

 そしてイエスさまが息を引き取ると、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂け、百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と信仰告白します。本日読まれましたマルコ福音書の終盤「イエスの死」という33節以下を二つの段落に分けて注目してみたいと思います。

第一の部分(33-36)は、イエスさまが十字架に付けられた時刻が示されており、そして昼間である12時には、地の全体が闇で覆われたとあります。この暗闇は、ただ単に暗くなったことを示すだけではなく、イエスさまを死に陥れようとする闇の力が、この世を支配したことを描いています。

 イエスさまが十字架に付けられてから3時間という時間、神という存在は、まったく介入していなかったということを示しています。それゆえに闇の力が全地を覆っていました。そしてイエスさまは、孤独の中、弟子たちや群衆に裏切られ、沈黙する神に「わが神、わが神、なぜあなたはわたしをお見捨てになったのですか」と問いかけの叫びを発します。

 イエスさまが叫ぶと人々は、さらにあざけります。「エリヤを呼んでいる」と理解したり、ある者は、走っていき、酸いぶどう酒を飲ませようとしたり、「見ていよう」と、息絶えるのを眺めている者がいたことを聖書は伝えています。

 第二の部分(37-39)は、イエスさまが大きな声を出して息を引き取ると、神殿の幕が引き裂かれるという場面です。実際は、ゴルゴタから神殿は離れていましたが、聖書はイエスさまの死と同時に神さまが、この世に介入されたことを神殿の幕が裂ける描写によって示しています。またイエスさまの死に遭遇して初めて信仰を告白する百人隊長の姿が描かれています。

 この神殿の幕が裂ける神さまの介入の描写は、マルコ福音書においては、イエスさまが、これから苦難を受けられる際に天が裂け、神さまが介入されたイエス・キリストの洗礼(1:10)を思い起こさせます。イエスさまの洗礼における決心は、十字架上での死によって成就し、再び神さまが介入されたことを示しています。

 もう少し具体的に述べるならば、神殿の幕とは、大祭司が年に一度だけ入ることのできた至聖所と、その手前の聖所を仕切る幕でした。この幕が裂かれた意味とは、ヘブライ書「イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちに開いてくださったのです」(10:20)という出来事でした。つまり、大祭司という特権階級のみが、その至聖所に入ることを許されていたユダヤ教信仰とは異なり、イエス・キリストの死は、神殿の幕が裂けることによって、すべての人々に神さまとの交わりが開かれることになったことを意味しています。そのしるしとして、まず異邦人である百人隊長が、イエス・キリストが「神の子であった」と告白したことがわかります。マルコ福音書において、人間による「神の子」という告白としては、初めてなされたものがここに記されています。

 この百人隊長の姿と対照的に、36節にはイエスさまに酸いぶどう酒を飲ませた、あざける人々が描かれています。イエスさまをあざける人々は、確かにイエスさまのそばにはいますが、傍観しています。つまり、そのような人々にとっては十字架とは単なる嘲笑の的に過ぎません。けれど も、十字架の死を正視する者には、それを通して、神の声が聞こえるということを示しています。百人隊長は、そのような意味で、多くの人々があざけっているにもかかわらず、十字架と向き合っていた人物像としてマルコは描いています。

 この姿勢は、本日から始まる聖週における私たちの歩むべき態度・姿勢を示しています。復活日までの期間、いかにしてイエスさまの十字架と向き合うことができるかが、私たちに問われていると言って良いだろうと思います。

 本日は、イエスさまの最後に、キリストの声である「叫び」(ボアオー)という動詞に注目したいと思います。この動詞は「叫ぶ、声を張り上げ呼びかける」という。ことにここでは逃れようのない苦境において助けを必要としているときの動作となっています。この動作は、人間から人間へ及ぶのではなく、人間から神に向けて発する叫びです。エジプトで奴隷となったイスラエルが苛酷な労働にうめきをあげ「叫ぶ」(出2:23)というのは、神が救いの業を行わず、沈黙しているがゆえに苦境にある人間が、絶望の底にあっても神を信頼し、神を呼び求める声が「叫び」という信仰告白です。

 この動作は、「叫び」とも言えますが、同時に私たちにおいては「祈り」という信仰告白です。ゆえにイエスさまは十字架上で沈黙する神に対して、最後の力を振り絞って叫ばれます。これは最後の最後、死の直前に際してまで神を信頼する子の姿です。この嘆きは、絶望と思われる状況の中から、神の応答を求める「祈り」です。この十字架上でのイエスさまの「祈り」に私たち自身が向き合うときに、苦しむイエスさまを見つめ、イエスさまの嘆きの言葉に耳を傾けるとき、私たちは、「本当にこの人は神の子であった」と告白することのできる力が、神さまから与えられるのではないでしょうか。

 私たちは祈りの中で、主の十字架に向き合い、聖週の間、私たち自身が祈る中で復活日を迎えることができますようにとお祈りしています。