大斎節第2主日 メッセージ

マルコ福音書8章31節以下に目を向けて参りたいと思います。この箇所は、イエスさまが受難予告をし、それについて弟子たちの理解が明らかになる部分となっています。

 第1段落31節から33節では、イエスさまがメシアであると一度は告白したペトロをはじめとする弟子たちでしたが、イエスさまとの理解にズレが生じたことから互いに「いさめ、しかる」という描写になっています。

 「いさめる、しかる」(エピティーマオー)というペトロやイエスさまの行動を表す言葉は、ある行動を阻止したり、終わらせるために「叱り、戒め、強く非難する」などの事柄を意味します。すなわち、ペトロのイエスさまを「いさめ始めた」という行動は、双方のメシア観が、相容れないものであったことを読み取ることのできる行動となっています。

 ペトロのメシア観は、地上における勝利者としてのキリストとしてのイエスさまを認識していた節があります。その一方でイエスさまの予告は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され」(31)という十字架上における死を遂げるメシア観を提示します。それゆえ、ペトロの「いさめ」るという行動とは、十字架への道を阻止しようとする人間的な思いが全面に出ている反応です。

 この思いや行動は、イエスさまの「引き下がれ」(33)という言葉からわかるように、メシアにとっては必要のないものです。ペトロがサタンに値する行動をとったことを示しています。これはペトロという人間に象徴されている人間模様で、私たち人間は、しばしばサタン化する可能性を秘めているという警告でもあるかもしれません。

 第2段落34から38節は、弟子の従うべき道、あるいは弟子の立ち位置を示しています。「引き下がれ」と叱られたペトロでしたが、イエスさまは明確に弟子たちの立ち位置について、ここで語ります。34節「わたしの後に」というこの位置は、サタンには提示されませんでしたが、弟子たちには提示される立ち位置であるということを「わたしの後に」という言葉は示しています。

 弟子という存在は、「引き下がれ」という言葉が意味するように、一旦は消え・一歩引くことを意味します。しかし、サタンのように全く消え失せなければならない存在ではなく、イエスさまに従い共に生きる存在であるため、イエスさまの後に従う存在であるということが、ここで明らかにされています。

 この弟子の立ち位置ということを考えるとき、私たちとイエスさまの関係は、健全であるでしょうか。その位置の取り方、距離感は適切であるでしょうか。この大斎節中に今一度確認する必要があるのではないかと思います。私たちは、しばしば自らが正しいと思う方向へと他者を導こうとする誘惑にかられることがあると思います。しかし、その正しさは、真の正しさでしょうか。ペトロも自身のメシア観が正しいと信念を持って、イエスさまに方向修正を提案し、「いさめ」促しました。けれども、その思いは、実際に神さまの示される真の正しさとは、ズレがあったことを聖書は記しています。

 その思いを修正されるためイエスさまは、改めてペトロの位置を説明した部分が「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34)という生き方であり、道です。イエスさまは、弟子の立ち位置を修正し、私たちの進むべき「道」を示されています。

 第3段落36節から38節は、「恥じる」(エパイスキュノマイ)という言葉が見られます。この「恥じる」という言葉は、神さまのみ言葉に聞き従わない生き方であることを言っています。私たちは、しばしば神さまの思いに従わず、み心から離れた生き方をします。けれども、ふとした神さまの恵みに気付き、立ち返るという経験をすることがあると思いま す。そのような中で私たちの信仰は、形成され、経験を積み重ねることで力強い信念となって、信仰者として成長します。

 しかし、一方で神さまから離れてしまうということは、弱い人間存在にとってしばしばです。イエスさまは、そうならないようにと弟子や大勢の群衆向かって呼びかけ、「わたしの後に」と教え、「自身から離れない生き方をしなさい」と弟子たちの位置を示し、恥じない生き方を生きる人間へと刷新されるようにと促します。

 本日の34節には、ペトロという弟子とともに「群衆」の姿が描かれています。この「群衆」が何を意味するのか、どれぐらいの人数であったかは、具体的には記されていません。彼らもまた弟子ら同様にイエスさまの言葉に耳を傾け、奇跡を実際に見た人々でした。しかし彼らは、どちらかというとイエスさまが起こす奇跡に群がっていた人々であったかもしれません。見える物、人間の力では想像もできない奇跡の方に、より価値を置いていた群れであったのかもしれません。

 だからこそ、イエスさまは、そのような地上における奇跡ではなく、復活を希望とし、十字架の道を共に歩むようにと招かれます。その語りかけは、聖書の時代、状況だけではなく、今ここにいる私たちにもイエスさまが語りかけられるみ言葉です。

 そして、その語りかけられている言葉は、イエスという存在がペトロの思っていたような地上の勝利者としてのメシアを悟るのではなく、この世の多くの罪を背負う犠牲として、十字架を背負って亡くなっていかれたメシアを受け入れることです。この十字架を受け入れ、また共に背負う決意をした時に、復活の栄光が私たちの目の前に示されます。

 イエスさまの後に従う者とは、人の思いを否定し、神さまの思いに従うイエスさまと共に十字架への道を歩む存在です。これは容易な道のりではありません。私たち人間は、さまざまな苦しみを乗り越えてゆく中で、神さまと出会い、苦しみの中で信仰を告白します。この生き方を大切にしつつ、主の十字架と復活の栄光を仰ぎ見ながら歩む、大斎節第2の週を過ごしてまいりたいと思います。

(司祭 松山健作)