私たちの生きるこの世の中は、他者の「評価」を無意識、あるいは意識的に気にする中で多くのストレスを抱えています。自らの働き、振る舞い、資質が評価されることにストレスを感じます。しかし、これは当然のことで、他者からの目が、視線が世間にはあるということです。
私たちの生活は、この1年を超えて引き続くコロナ禍において、多くの事柄が急速にオンライン上で行われるようになりました。発言や映像、顔の表情も含め、オンライン上で記録されています。その記録は、制限をかけない限り、いつどこにおいても、地球の裏側においても確認することのできる状況となっています。
ゆえに私たちのオンライン配信によるメッセージも、何らかの「評価」というものを伴い、「評価」を気にするものになっているのかもしれません。あるいは目の前に集まった教会の会衆に合わせたものではなく、画面の向こう側の見えない他者に向かって語りかける時代に突入しています。それゆえにでしょうか、私はしばしば自らの語る言葉に非常なストレスと制限を感じつつ、「これで良いのか」、「いや、仕方ないのか」、と自問自答することが多くなりました。
けれども、本日のイエスさまの教えは、そのストレスや制限から解き放たれるようにと勧めているように感じています。マルコ福音書6章1節以下には、「1『見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」とあります。
ここで描かれている「偽善者」とは、人に見られるために本来の自分でない姿を演出することによって、仮の姿で報酬を求める人間像について指摘しています。この「偽善者」とは、ユダヤでは善行を積むことによって、犯した罪を償うことができる、報いを得ることができると考えられていたゆえに奨励されていたようです。けれども、それが行き過ぎると私たちは、自分ではない自分を演じて生きていくことになります。
私たちは、そのような偽善を伴い、他者の評価、あるいは神さまから人間として高い評価を受けるための「偽善」を行う必要があるでしょうか。あるいは、自分とは別の自分を演じるまでして、賞賛を受けることが、私たちにおいて大切な事柄でしょうか。
大斎始日の福音書は、三つの善行の徳目(施し、祈り、断食)を勧めています。この善行は、私たちが他者から良い評価を得るためではありません。これは人が神さまとの正しい交わりに立ち返ることに目的があります。そして悔い改め、主のご復活に思いを寄せ、準備するための徳目ではないかと思います。それゆえに肝に銘じなければならないことは、その善行を行うことにおいて、報いを求めない人間的な姿勢が、キリスト者の姿勢が、私たちに求められています。
私たちは非常にストレスフルなコロナ禍という一年を過ごしてきたかと思います。時代は、顔の見える関係だけにとどまらず、不特定の他者に評価され、ネット上での暴力や差別が蔓延する社会情勢となりました。自らが攻撃されないために防御しながら生きる、防御する一方で、自らは他者にオンライン上で攻撃を加えているかもしれないという社会に属していると感じます。そのような中で、私たちは自分ではない自分を演じなければならず、そしてその別の自分を演じることによって、他者から賞賛を得て、報いを得ています。しかし、その一方で自分ではない自分を演じることは、肉体的に、精神的に気付かぬうちに大きな傷を負い、多くの疲弊を積み重ねているのかもしれません。
けれども、このような偽善的な生き方を聖書は勧めていません。16節「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」と。そして18節「それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。』」と。
この教えは、私たち人間が自分でない自分を演じ、人に見てもらおうとするのではなく、神と人との正しい関係性の中に立ち返り、神さまから報いを受ける人間存在へと立ち返ることを勧めています。これは誰からの・何らの賞賛や報酬を求めない生き方の勧めです。
この大斎節の四十日の向こう側には、主のご復活の栄光が示されます。この栄光を見るには、これから始まる四十日の中で私たちは一日いちにちを主が受けられた苦しみに目を向けながら、十字架を思い起こす中で施し、祈り、断食することを通して示される栄光であると思います。
これから始まる大斎節において、私たちは自己において自分でない姿を演じるのではなく、隠れた施しを行うことによって、自らのこれまでの生活を見つめ返し、キリストの苦しみ=この世に示されるキリストの愛の業に目を向けて生きたいと思います。この大斎節の期間、イエス・キリストの苦しみを共にしつつ、ご復活の栄光へと導き入れられたいと思います。父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。