大斎節第4主日 メッセージ

ヨハネによる福音書6章4節以下は、5000人の群衆の前で「しるし」が示されます。

 ヨハネによる福音書の5000人の給食は、フィリポがイエスさまから試される場面、また少年が持っていた5つのパンと2匹の魚によって、5000人が満腹した描写が他の福音書に比べ特徴的です。この奇跡が示されたのは、「」であり、病んでいる人々(6:2)に「しるし」を示したイエスさまに関心を示した多くの群衆が着いてきました。ここで、いくつかの言葉に注目したいと思います。

 第1に4節「過越祭が近づいていた」とあります。先週はヨハネ2章13節以下「神殿から商人を追い出す」という過越祭に関連した描写が読まれました。過越祭とは、出エジプトで示された神の救いの業を記念するためにユダヤ人がエルサレム神殿で祝う祭です。ヨハネは、繰り返し過越祭について言及しています。本日の箇所と2章13節以下の神殿から羊や牛や鳩を追い出し、自らがいけにえとなることを強調した箇所を重ね合わせてみますと、祝祭の中心は、真の神殿であるイエスを通して祝う祭であることを強調しています。つまり、新たな救いの歴史は、イエス・キリストの十字架によって示されることによって代わることをヨハネは暗に意図しているのではないかと思います。

 その救いの業として示される「しるし」の一つが、5つのパンと2匹の魚によって、5000人が満腹したという事柄です。これがどのような増え方をしたかについて、記されていません。けれども、10節「人々を座らせなさい」という描写は、「食卓につく」ことを意味を示します。ゆえに、5000人もの人々が、食卓につき満腹できるほどのものが与えられたという事実を示しています。

 ここでヨハネ福音書において、注目すべきは、「(コルトス)がたくさん生えていた」(6:10)と記している点です。この単語の用い方は、ヨハネ福音書だけにみられるものです。イエスという存在は、真の牧者として民を導き、彼らを養う存在であるということを、この「」の描写から読み取って見たいと思います。神という存在は、「青草」のしげる牧場に民を導き、彼らを豊かに養うという詩篇23篇の様子が、ここに描かれていると思われます。 

 このように豊かな恵みと導きが与えられるにもかかわらず、しかし群衆は、大きな「しるし」を目にしたことで、イエスさまを連れていき「」にしようとします。「連れて行く」とは、ここでは「連行する、奪う」ことです。これは群衆という存在が、イエスさまのしるしを見て、イエスという存在を誤解した様子です。彼らは、イエスという存在を導き養ってくださる真の牧者ではなく、彼らの願いを満たすために利用したい「」としてまつりあげようとします。群衆が求めたのは、彼らの求める願いを叶えてくれる預言者でした。つまり、神の言葉に耳を傾けて生きようとする人間の姿ではなく、神の指導に身をまかせる生き方でもありませんでした。群衆は自分の考えに従って「しるし」を捉え、イエスさまを王に仕立て上げ、利用しようとしたのです。

 このような群衆の考えをイエスさまが知った時「ひとりで山に退かれた」とあります。これは私たち人間が人間の願いを叶えようとする時、自分の願いで満たされたいとイエスさまを利用しようとする時、イエスさまを裏切ってしまう時、イエスさまは、私たちから離れていかれるということを端的に言い表す描写です。

 大斎節第4主日の時、私たちの「祈り、願い」は、自分を満たそうとするものになっていないか、イエスさまを自分のための「」としていないかについて、問いかける時としたいと思います。

 イエスさまは、十字架という苦しみによって救いの業を示されます。その救いの業を示される前に幾度となく、人間への「しるし」を示し、豊かな牧草のある茂みに連れてゆき、養われる方です。この恵みは、私たちにも同様に示されていますが、イエスさまは時に人間が、み心に叶わぬ行動をとるということもご存知です。それにもかかわらず、イエスさまが群衆に対して「しるし」を示し続けたのは、人間という存在が真の救いに目を向ける可能性があるということへのイエスさまご自身の情熱ゆえではないでしょうか。

 私たちは、聖餐式を通して十字架と復活を記念します。「み言葉の礼拝」を通した霊的陪餐によって、十字架と復活を記念します。十字架と復活は、ヨハネが描いている最大の「しるし」です。私たちは、その最大のしるしに目を向け、私たちの間違った理解ゆえに苦しまれるイエスさまの思いに心を寄せながら歩む大斎節第4主日の週を歩んでまいりたいと思います。